永禄3年(1560)上杉謙信は関東に侵攻し古河公方に足利藤氏 を擁立します。この時、関東の武将はほとんど相馬氏も古河衆として謙信に参陣しました。
永禄5年には北条氏が古河城を奪回し藤氏は里見氏を頼って安房に落ちていきます。北条氏は永禄7年には第2次国府台合戦で勝利し関東への勢力圏を回復してきました。
永禄9年(1566)3月、謙信は小金城(松戸市大谷口)近くの本土寺に陣を敷きました。この謙信陣に、治胤は代官を遣わし、馬を献上しています(「相馬治胤書状」/『江口文書』)。 数日後、謙信は
兵八千で臼井城(佐倉市臼井)を取り囲みました。臼井城主原胤貞は千葉宗家から500騎、白井入道胤治なる無双の軍配の名人と北条方の赤鬼と異名をとる松田孫五郎康郷の150騎の援軍を得て、都合2000騎で籠城しました。城攻めは長引き、ついに謙信は25日敗退して越後に引き揚げました。
この臼井城攻略の失敗で謙信の不敗神話は崩れ、関東の武将たちは雪崩をうったように北条氏に従属してきました。
臼井から戻った一年後、治胤には聞き捨てならぬ機密情報が飛び込んで来ました。簗田晴助は北条氏政に帰参の条件として相馬領を要求し、氏政は、簗田晴助の北条方への帰参に報いるため守谷城の領有を認めたとの情報です。
これに対して治胤は義氏に詫びを入れ、帰参の条件として義氏の御座所として守谷城を進上することを承知しました。
義氏は、永禄10年6月27日付氏政への書状に、「相馬孫三郎の懇望の筋目度々申し上ぐるの間、返答の如くは、要害相渡すべき趣申し遣わす処、此の度其の儀に任すべき由申し来たる事」(『国会本集古文書』)と治胤の守谷城進上を報告しています。
こうして、守谷城は北条方へ引き渡され、7月には小田原勢が守谷城に入城、8月には、義氏側近の芳春院周興も入城しました。 11月「義氏書状写」/『豊前氏古文書抄』に、「相馬の儀万事御窮屈と思召し候、(中略)相馬左近大夫方へも急度仰せ出さるべく候、清光曲輪蟠踞(ばんきょ)の儀、先番衆も同前に申し上げ候き、然ると雖も番衆不足の間にて仰せ出されず候、これ又左近大夫へも仰せ付けらるべく候」、と苦情が述べられていますが、ここで云う清光曲輪は、守谷城清水門内の曲輪を指すと思われます。
翌永禄11年(1568)5月、義氏宛「氏政書状写」に、「此度、古河・相馬御下知の如く、普請等堅固に申付け、帰陣仕り候、」(『豊前氏古文書抄』)とあり、公方義氏の命で、氏政が古河・守谷城の普請を申し付けたと報告しています。江戸時代に書かれた『関宿伝記』に、守谷城に北条流の「障子堀」が在ったとしています。この時の普請の跡でしょう。
その間、治胤らは支城の高井城か筒戸城に退いたと思われます。が一方で、番衆は治胤配下から出していたようで、全面的な城の明け渡しは行われず、依然、治胤以下城兵は在城していた様子も窺えます。
しかし、その頃から晴助と氏政の和議交渉が怪しくなり、晴助は氏政と袂を分れ、謙信に帰属しました。治胤は簗田氏の離反に行動をともにせず、義氏=北条氏への従属を維持し、その「忠節」の恩賞的なものとして守谷城は治胤に「返却」されました(『戦国期東国の大名と国衆』黒田基樹)。これで、守谷城を晴助に渡すこともなくなりました。
永禄12年閏5月、謙信と氏政は「越相同盟」を締結します。義氏は古河城へ入城、守谷城に詰めていた北条勢は義氏の移座までには退城したと思われます。こうして治胤は、守谷城を公方の御座所として提供させられた代償に、公方義氏の国衆という身分保証を得て、北条氏の軍事指揮下に組込まれます。