秀吉は小田原攻撃にあたり、北条方の戦力調査を行い、従軍各将に事前配布されたらしく、その様子が『毛利家文書』に残されています。「北条家人数覚書」には、北条一族以下北条軍に属する各武将名が記載されており、その中に「惣馬小次郎 百騎」とあります。「合せて34,250騎、是は氏直分国惣人数也」としています。また、「関東八州諸城覚書」には、小田原城を含め、93城が記載されています。さらに、天正10年頃作成されたという「小田原一手役之書立写」/『安得虎子』には「相馬殿」とあります。『北條五代記』・『房総軍記』には「高井主水」、『北條記』には「相馬は宮城野口へ、その外に相馬次郎・高井が小田原の城に楯籠る」とありますので、治胤のほかに高井胤永も籠城したと思われます。
こうして、治胤は天正18年(1590)正月、胤永ら手勢130騎を随え、故郷守谷を後にして小田原へ向かいました。正月16日までには到着し、松田憲秀の指揮下に入り、宮城野口(神奈川県箱根町)の防備を命じられました。
小田原城内では、城門九ツ全て、北条一族ないし重臣たちで固め鉄壁な防備を構えていましたが、4月8日夜、早々と下野皆川城の皆川広照(東国闘戦見聞私記を口述)が手勢百人を連れて投降します(「秀吉書状」)。21日には、玉縄城の北条氏勝が剃髪姿で投降しました(「榊原康政書状」)。16日には、こともあろうに、松田憲秀の長男、笠置新六郎政晴が調儀され、次男で嫡男の直秀の注進により露見しました(『北条五代記』)。憲秀指揮下の相馬治胤も他人事ではありません。
この包囲戦の中、関東の北条方の城も、次々陥落させられています。各地に秀吉禁制が遺されています。禁制の日付を追う事で征討軍の進軍コースが読み取れます。征討軍の浅野長政は「拙者も奥関東仕置の事を仰せ付けられ、4月26日小田原表を罷り立ち、武蔵国・上総国・下総国・常陸国・下野国・上野国の城々請け取り候事」(「浅野長吉書状案」)と語っています。
従って征討軍は4月26日に小田原を立ち、その日の内に鎌倉に入り、翌日には江戸城を請け取っています。その後5月1日に野田に陣を張っていました。その頃迄で、征討軍の手持ちの制札が不足し、秀吉に追加を要請、5月3日付書状で百枚遣わすという返事を得ています(「秀吉書状」)。次に野田から小金に入ったと思われます。小金城主の「高城家由来書」では、5月5日に開城してぃます。その後、守谷城を接収し、佐倉城は5月18日開城しました。ところで、浅野長政は城請け取りは、「奥関東仕置」の一環としています。ここで、守谷城近くの長龍寺所蔵の禁制(きんぜい)をご紹介いたします。長龍寺に遺された禁制が秀吉朱印状ではなく、木村・浅野連署禁制なので、朱印状の手持ちが無かった5月上旬ではないかと思われます。
氏照がこの日のために数年掛けて築いた八王子城も、6月23日、たった1日で落城して、翌日には、織田信雄ら四万の大軍に囲まれ、約三ケ月間籠城して善戦した韮山城も開城し、城主の氏規も小田原に来て氏直と氏政に降伏を呼びかけました。秀吉の心理作戦が功を奏し、7月5日、氏直も抗しきれず、小田原城を出て降伏を願い出ました。7月11日、主戦派と見做された
氏政と氏照、それに表裏の宿老松田憲秀と大道寺政繁は切腹させられました。家康の娘を娶っていた氏直と、先に上洛して秀吉に拝謁したことのある氏規は、高野山送りとなりました。
氏直は、翌19年2月、秀吉から大坂表へ呼び出され、下野足利で九千石・近江で千石拝領し、合計1万石の大名に取りたてられました。 だが、氏直は不治の病に侵され、天正19年11月4日病没しました。30歳でした。
その後の治胤について、「相州に属し、北條家に勤め仕り、北條滅却の後、事を欲し関白秀吉公に訴訟と雖も叶わず、流牢の後、信濃守胤信の扶持を請け、旁ら遺恨散り難く、武州山手に於いて思死云々、子孫断絶」と奥州の歓喜寺所蔵の「相馬之系図」にあります。治胤は秀吉に対し御家再興を直訴したのでしょう。
治胤は、「転心斉」と号したとありますが、北条氏を裏切らなかったことを自嘲していたようで、却って、治胤の無念さが感じられます。「相馬之系図」では、治胤は子孫無く断絶したとしていますが、実際は、子孫は江戸時代、直参旗本として、明治維新まで存続しました。