江戸時代に入ると近松門左衛門の浄瑠璃「関八州繋馬」や山東京伝の読本「善知安方忠義伝」そして歌舞伎「忍夜恋曲者」(通称将門)、さらに錦絵 「将門山の古御所」、「相馬の古内裏」」などにより将門人気は高まり、おおくの文人墨客たちが守谷城址を訪れ、紀行文や詩歌を遺してくれました。
①今泉政隣(まさちか) 著者は久世広明の時の関宿藩士で、安永九年(1780)『関宿伝記』を著しました。ただし、守谷古城の記述は、同関宿藩士加藤左次兵衛の物語を引用している様子です。以下『関宿伝記』より抜粋
「先年相馬へ行きし事あり、弥生廿日あまりの事なりしに、小張村を出て、田場を経て、豊体村青木村両村ともに、土屋能登守(土浦藩主)様御領分、青木村内小貝川舟渡し、谷田一つき越えて坂口より左へ岨(そば)道通過して、相馬郡守屋町東裏へ出る。是より案内頼みたるに、村長喜内出、此の所より古城なり。」
②溝口素丸(そまる) 俳人、其日庵(きじツあん)三世・絢堂(けんどう)などを号す、寛政七年(1795)没。
将門古城一見の時
米かみの 動きや麦の 穂の戦(そよ)ぎ
③小林一茶・桜井蕉雨(しょうう) 俳人、一茶が初めて守谷に来たのが文化七年(1810)信州飯田の俳人櫻井蕉雨の案内で、西林寺の義鳳上人(俳号鶴老)を訪ねました。一茶はその後9回守谷を訪れています。
蚊の声や 将門殿の 隠し水 蕉雨
梅咲くや 平親王の 御月夜 一茶
④清水濱臣(はまおみ) 歌人、和学者、村田春海の門人、同門の高田与清と双璧といわれています。文化十二年(1815)守谷に入り、守谷城址を訪ねました。その時の紀行文『総常日記』です。
「十二日、朝日のさし出るを待ちて、あるじにいとまをつけて出たつ。ここより相馬郡也、三丁ばかり左に平親王の古城の跡は□といへばとひみる今に、空堀の跡いちじるしく三重に堀をまわして、出丸本丸ともいふべき、たか き所あり、要害の沼広くて、なか浅は水田にはり、たかき所をば、畑につくりたり、本丸とおぼしきは古井あり、井げたなどはなくて、深さ三丈はかり底にいささか水見ゆ、天慶のむかし思いやらるる事おほし、しばしやすらいで、身めくりつつ、思いつづけるうた、」
いくとせか ふる井の底のたまり水
千代に濁れる 名こそ埋もれぬ
⑤高田与清(ともきよ) 国学者で歌人、清水浜臣と取手の沢近嶺(ちかね)と合わせ、「錦門の三傑」と呼ばれています。『相馬日記』は、文化十四年(1817)八月一七日から二八日までの、相馬地方の旅日記です。
「守谷野は、いとひろき野にて、目も遥かに見かすばかりなり。これ相馬の偽都(いつわりのみやこ)のかまえの内にて、もののふ(武夫)らがいむかいし跡なりといへり、平の台といふは、いとたかき岡にて、ここぞ将門がすみし所なる、また、めくるめくばかりの深きほりきをわたりて、八幡郭にうつる。(中略) がうしうが原といへるは、田中の離島にて、たてぬきに上道一里あまりの広野也、むかし淡海のめぐれる時は、えもいわぬけしきの島なりけんとぞおもひやらるる、今この野中をがうしう海道(郷州街道)とよべり。」
たつ波の 風にあれけむ 辛島の
広江はあせて おともきこえず
⑥十方庵敬順(じっぽうあんけいじゅん) 江戸の住職で、俳号は以風、隠居後は江戸を中心に、関東・東海地方まで及ぶ見聞紀行を『遊歴雑記』に著しました。文政三年(1820)3月13日守谷に来訪し、斎藤徳左衛門家に宿泊、守谷城址と西林寺を訪問、翌日、筑波山へ旅立ちました。
「此の処より段々と爪先あがりに、高く数十歩にして、火急に高に登る。是むかし本丸の跡とかや、今は此処を比羅台と称す一体は平台と書きて、平親王の居処といふを標せるものとぞ、(中略) 崖際に葦原に蹲踞しつつ、摺火打にたばこ吸いながら、鄙(ひな)の景色をたのしむ、亦一興なりき。
承平の むかしもかくや 舞ひばり 以風
⑦赤松宗旦 下総国布川の医者で、著書の『利根川図志』は、利根川流域の寺社・旧跡・風物を紹介した地誌で、安政五年(1858)の初版、巻二に、平将門旧祉を掲載しています。
守谷城全盛の時の童謡として、今なお伝える者あり
和田の出口の五本の榎、本は稲村 葉は高田、
花は守谷の城に咲く、城に余りて町に咲く
そのほか、『筑波の記』の著者藤原為実、『下総国旧事考』の著者清宮秀堅(せいみやひでかた)、俳諧師鳥酔(ちょうすい)、漢詩の大沼沈山(ちんざん)、『平将門故蹟考』の著者織田完之(鷹州)、能書家の野村素軒(そけん)など、多くの文人たちが守谷城址を訪れ、俳句や漢詩を詠っています。
なお、野村素軒は、「平将門城址」の石碑に揮毫しています