守谷の将門伝説の発端は古く、それは文献と守谷城が将門直系相馬氏の居城だったからでした。
鎌倉時代から戦国時代までの守谷城主・相馬氏は平将門の直系子孫を称しておりました。信田系図によると将門の遺児、将国より十代の相馬師国に子がなく、千葉常胤の次男師常(相馬氏初代)が養子に入ったと伝えております。
文献では、『将門記』に「王城を下総国の亭南に建つべし」とあり、亭南の地は、岩井営所の坂東市岩井が有力視されていましたが、鎌倉時代以降の多くの軍記物語には、「将門は下総国相馬郡に都を立て」と記しています。
・平安時代
『将門記』・・「将門名づけて新皇という、王城は下総国の亭南に建つべし」
『扶桑略記』・・「王城を建つべきの処を定め、下総国猿島郡岩井郷の亭南を都朝と為すべく」
『今昔物語集』・・「将門自ラ新皇ト云、王城ヲ下総ノ国ノ南ノ亭ニ建ツベキ議ヲ為ス」
・鎌倉時代
『保元物語』・・「昔、承平ニ将門ガ下総国相馬郡ニ都ヲタテテ、我身ヲ平親王ト号ス」
『平家物語』・・「下総国相馬郡ニ住シテ八国ヲ横領シ、自ラ平親王ト称シテ都ヘ打上ケリ」
『源平盛衰記』・・「下総国相馬郡に都を立て、自分は平親王とあおがれて、百官を置いた」
『源平闘諍録』・・「五カ年の内に東八カ国を打ち随え、下総国相馬郡に京を立て、将門の親王と号さる」
・室町時代
『神皇正統記』・・「下総国相馬郡ニ居所ヲシメ、都トナズケ、ミズカラ平親王ト称シ」
『太平記』・・「相馬郡に都を立て、自ら平親王と号す」
『俵藤太物語』・・「相馬の郡磯橋を限りて王城を構え、我が身自ら新皇と号し」
・江戸時代の文芸
『北条五代記』・・「関八州をしたがへ、下総の国相馬の郡に京を立、平親王とみつから称す」
『将門・純友東西軍記』・「下総相馬郡に都を立つ、或いは下総国猿島郡岩井の郷」
浄瑠璃「けいせい懸物揃」 近松門左衛門作品・・「平親王と名乗り、相馬の郡に都を作り」
浄瑠璃「関八州繋馬」 近松門左衛門作品・・・「相馬郡に都をたて」
錦絵「相馬の古内裏」 絵師 歌川国芳
錦絵「相馬内裏合戦」 絵師 歌川安秀
読本「善知安方忠義伝」 山東京伝著・・・「相馬内裏の旧御所」
歌舞伎「忍夜恋曲者」(通称「将門」) 宝田寿助作品・・・「将門山の古御所」
江戸前期まで、将門が建てたかった王城の場所は、「相馬の内 裏」と「猿島の内裏」が混在して流布していましたが、中期以 降は、次第に「相馬の内裏」に統一されて行きました。
これは、将門直系子孫を名乗った相馬氏の存在が大きく、相馬氏の居城=守谷城から、「将門の王城=守谷城址」と、云われるようになったと思われます。
将門伝説がある寺社 永泉寺 浄土真宗 守谷市松並 守谷市指定文化財である『沼崎山略縁起』には、平将門の乱後相馬政安や残党が堂宇を建立して将門と影武者の土偶を安置し、2代相馬政安が西賢と号し永泉寺として開山し、以後堂宇を代々守ってきたことが書かれています。 鎌倉時代末期~南北朝時代にかけての作とみられる寄木作りの聖徳太子立像は守谷市指定文化財になっています。 |
海禅寺 臨済宗 守谷市高野
承平元年(931)、平将門が創建したと伝え将門の位牌を安置しています。本尊の延命地蔵菩薩は行基の作という伝承があります。 境内には七騎塚があり将門と7人の影武者の供養塔と旗本相馬氏歴代の墓があります。 寛文4年(1664)に当時の守谷城主堀田正俊が寄進した『海禅寺縁起』には創建の由来が記され守谷市指定文化財、境内裏のスタジイの大木は守谷市指定天然記念物となっています。 |
長龍寺 曹洞宗 守谷市百合ヶ丘2丁目
延暦年間(782~806)、弘法大師が関東遊歴の折、堂宇を開創し自ら住すること3年にして去ると伝えます。延長2年(924)、平将門が相馬郡を統治の折、桓武天皇の菩提を弔うため伽藍を造立し尊碑を安置し徳怡山長龍寺と称したため、将門を以って開基として位牌を安置しています。 小田原合戦の折、浅野長政・木村重茲連署の軍勢乱暴狼藉の禁制状と徳川家康の寺社朱印状は守谷市指定文化財となっています。 |
愛宕神社 守谷市本町 天慶年中(938~948)平将門が京の愛宕本社に擬して勧請し、社宝の石剣は平将門が奉納したと伝えられます。 祭神は軻遇突智命(カグツチノミコト)で火の神様です。 守谷市指定文化財の鰐口は元和7年 (1621)の社殿再建時に土岐家の家老井上九郎左衛門と加藤久太夫が奉納したと刻字されています。 |