難攻不落の名城

守谷城

 守谷城は、常陸国と下総国の国境

     守谷城全体図

である小貝川南端の低湿地に突き出した、舌状台地に築かれた直線連郭式の平山城です。周囲水田面から標高約18.5メートルで、現在も三方を低湿地で囲まれており、往時は鬼怒川と小貝川が合流してその入江が入り込み満々と水を湛えていたといわれています。
 当城は、「城山地区」とその根元部分に当たる大手門跡から清水門跡までの「城内地区」に別けられます。

土橋

      土橋

 「城山地区」は、細長い舌状台地を何本かの空堀・土塁で区切り、長線的に腰曲輪を配する構造で、御馬家台・二の曲輪(平ノ台)・楯形曲輪・本曲輪・妙見曲輪が直線連郭式に配されています。そのほか、防御施設として「枡形虎口」・「櫓台」・「木橋跡」・「土橋」・「横矢掛」・「一騎立」・「引橋」・などの中世の遺構がほとんどそのまま残っている貴重な城です。
 「城内地区」には、「大手門跡」・「馬出虎口」・「土塁」・「清水門跡」などが残されており、清光曲輪(九左衛門屋敷)には茶屋があったと伝えられています。

空堀

      空堀

 本城は、舌状台地の付け根に本郭を置く、極めて古い築城様式のもので、その構築の初元は鎌倉時代初期ではないかといわれていますが、戦国時代末の永禄十一年(1568)、北条氏政によって公方御座所に相応しい「普請等堅固ニ申付」られ増改築されたため、築城時期は確定できません。しかし、深い空堀や精緻な防御施設を見る限り難攻不落、さらに清光曲輪の茶屋や早歌「和田のでぐちのごほえの木」の伝承など、天下に格式の高さと偉容を誇示しています。

 守谷城はその周辺を幾つかの支城で固めていました。それら支城を含めた戦いを文献・戦記物語などから抽出すると9回の戦いがあったことが窺われます。北条・佐竹・多賀谷氏などの大敵に屈しなかったのは、守谷城の地形が鬼怒川・常陸川・藺沼(利根川)など広大な川と湿地帯に囲まれ、大小の谷津田が入り込み、城の三方が湖沼という自然の要害に恵まれた難攻不落の名城であったからと言えます。

 城の面積は、蔵重一彦氏の測量結果によりますと、「城山地区」22,250平方メートル、「城内地区」で159,750平方メートル、合計182,000平方メートルです。