永禄11年(1568)に城として最盛期を迎えた頃の遺構を整備しました。
永らく忘れられていたので保存状態は良好で、埋もれていた舟着き場も初めて現出しました。
公方御座所に相応しい城として北条氏政が威信をかけて増改築した防御施設が整った難攻不落の名城です。後年の飯沼城(逆井城)・八王子城・山中城の原型になったと思われます。その経緯を要約します。
➀ 永禄9年、上杉謙信は臼井城攻めで大敗して不敗神話が崩れ関東の武将たちは雪崩を打ったように人質を出し北条氏と和睦した。
② 関宿城主簗田晴助が古河城を返上する替りに守谷城を領有する密約を氏政と交わしたとの報せが相馬治胤に届いた。
③ 守谷城主相馬治胤は公方足利義氏に守谷城を進上することで北条氏と和睦する。
直ちに江戸城代遠山政景の手勢と相馬勢が改築に取り組む。
④ 義氏より人手が足りない、清光曲輪(九左衛門屋敷)が狭いなどの苦情が氏政に届いた。
⑤ 永禄11年5月、北条氏政は「普請等堅固に申付け、帰陣仕り候」(『豊前氏古文書抄』)と公方奏者に報告している。
文面からは守谷城に来て直接に指揮したと窺われる。
⑥ 結果的に公方義氏は入城せず、治胤はそのまま在城し後に返却されたようである。
⑦ 当時の守谷城の威容を唄った早歌が現在に伝承されている
「和田のでぐちのごほえの木、本は稲村、葉は寺田、花は守谷の城に咲く、城に余りて町に咲く」
各防御施設には楽しく学べるよう解説とイラストで案内板を設置しました。
➀ 御馬家台曲輪の矢倉台・桝形虎口
防衛の最前線として、厩や武器庫、補給処があったと推定される。
枡形虎口は攻撃時には城兵の集合場所であり、守りの時は攻城兵に周囲の土塁線の上から矢玉が注がれる仕掛け。虎口は曲輪の出入口の事。
矢倉台は最前線の戦闘指揮所で射撃台でもあった。また、矢など武器蔵との説もある。
② 空堀
御馬家台と二の曲輪の間の空堀は、最大比高12m 総延長120mのV字型の薬研堀。二の曲輪側の崖線の凹凸で横矢掛かりの機能を持たせるなど、北条流の築城術として興味が尽きない。
③ 船着き場
帯曲輪一帯に内海を利用した船着場があったと伝えられ、今回環境整理の結果、船溜まりや埠頭と見られる遺構が現出された。平山城でありながら内海に面した船着場のある珍しい城郭と云える。
④ 坂道の桝形虎口
帯曲輪一帯に船着場や埠頭があり、内海からの攻撃に対して、帯曲輪と 平面の枡形虎口では対応できず、荷揚げ用の細長い屈曲した坂道をそっくり枡形虎口の中に取り込むことで防衛力強化が図られた。北条流築城術の妙である。
⑤ 二の曲輪の城門・矢倉台
二の曲輪の玄関口の城門の隣、矢倉台があり南の内海や北相馬台地を展望できる、御馬家台曲輪西端の矢倉台と並んで重要な監視台だったと想像できる。 右の城門扉と幟の紋は九曜紋です、つなぎ馬とともに平将門以来の相馬家の家紋です。
⑥ 土橋
二の曲輪と本曲輪の間に南北に楯を並べたような細長い楯形曲輪があり、土橋でつながっている。この楯形曲輪の土塁線は、土橋に向かって強力な側射を掛けられる横矢掛りで、戦術的に上位の本曲輪の防衛力を高めている。
この楯形曲輪と土橋は、尾根の掘削で掘り残され、掘削残土は内海の沿岸部に移動、船着場の造成に使われたと推定するのが合理的である。
土橋の両側は空堀と云ってもよい尾根横断の堀切の深い谷となっている。
⑦ 伝障子堀跡
安永9年(1790)、関宿藩士今泉政隣は『関宿伝記』の中で守谷城址につき同藩士加藤左次兵衛の著述を引用、武士らしい詳細な観察記録を遺している。曰く「・・・左右に深き堀有て細き道を通り(土橋のこと)、土居の内、巾七八尺斗を隔て、障子堀あり。此道一騎立と唱よし、此堀深うして向ふへ渡るべき便なし・・・」。 障子堀は、底を障害物で仕切った堀や倒した障子の棧のような四角の土塁の連続線で攻城兵の侵入を防ぐ北条流築城術の粋と云われている。
⑧ 本曲輪の渡り櫓・引橋
平成8年守谷町教育委員会発行『守谷城址』(発掘調査報告書)によれば、北東~南西約200m、北西~南東約100m、標高約13m、現在の地形は当時より約6m低くなっている。これは昭和40年代の沼地干拓、耕地整理の際の土取りにされたためとあり、土塁はすべて隠滅、敷地の一部は宅地にされていて、旧状を思わせるのは斜面のみとされている。
『関宿伝記』では、本丸は二の丸よりも低く、堀の上り口左右に高土居があり、渡り櫓の跡と推定している。また、引橋と名付けた処があると述べている。
⑨ 楯形曲輪(たてかたくるわ)
この楯形曲輪を馬出とする説もあるが、二の曲輪と同じ高さで狭く土塁線もないので、別目的の拠点と考える。即ち、比高が低くそのままでは防衛が不利な本曲輪の前衛として、この細い稜線(江戸時代の紀行記で一騎立ちと云われた)と本曲輪との間の引橋、その下の障子堀が一体となって敵兵の侵攻を阻止する強力な防衛線の一翼(まさに楯)だったと推定される。
これを受け、比高の低い本曲輪には、障子堀に沿って矢玉を防ぐための高土居(土塁)(発掘調査では現地盤よりも6mも高い、つまり現在の楯形曲輪よりも高い)があったと伝えられ、全体として高い防衛力を生み出していたと考えられる。
⑩ 楯形曲輪南空堀
この空堀は、楯形曲輪南部 と二の曲輪との間にあって本曲輪防衛線の一翼を担ったものと考えられる。延長70mで規模としては二の曲輪空堀に比べ目立たないが、殆ど完璧に保存されている美しい薬研堀のフォルムを構成している。
此処から見て二の曲輪側の勾配が約30度 楯形曲輪側の勾配は約40度と典型的な片薬研堀の形状で、戦時には堀底の逆茂木などで敵兵を動けなくする仕掛けがあったと推測される。
堀奥は土橋で、其処まで侵入した敵兵は、反対側の楯形曲輪北側の防衛陣地(横矢掛かりなど)からの強力な射線で射すくめられ、其処を突破しても空堀右上の細い稜線に誘引され、外された引橋で行き場がなくなり殲滅されると推測される。 この精緻な築城術は、古河公方の御座所として面子をかけて増改築した北条氏政の直々の采配によるものとされている。
守谷城址の案内図