天文15年(1546)4月、相馬家18代相馬胤晴は古河公方足利晴氏に随って山内上杉・扇谷上杉ら8万の大軍で河越城を包囲していましたが、北条氏康勢8千の夜襲で大敗し、この時胤晴は討死してしまいます。
翌年、氏康の命をうけた江戸衆が相馬口へ攻めてきました。胤晴の子整胤はまだ3歳だったので家臣たちは必死に防戦したと思われます。
天文21年(1552)足利晴氏は北条氏の要求に屈し嫡子の藤氏を廃嫡し、氏康の妹の子義氏に家督を譲り隠居します。
天文23年(1554)10月、晴氏は廃嫡した藤氏と古河城に籠城し北条氏に反旗を翻しますが敗れて相模波多野に幽閉されました。
弘治3年(1557)7月、晴氏は許されて古河城に戻ります。この時、「于今小山之高朝様・相間殿、無二ニ御走廻候」(田代昌純書状)と相馬氏は晴氏のために奔走しています。しかし、2ヶ月後の9月に藤氏・晴氏による古河城奪取の計画が失敗し藤氏は逃亡し晴氏は野田氏に拘束されます。
主家が激震のなか、相馬家は19代当主整胤は未だ幼く、あくまで反北条として晴氏に忠節をつくすか、御家安泰のため義氏・北条氏につくかで家中が動揺し続けたことは容易に想像できます。
この頃、相馬家で内紛があったらしく、年不詳の「足利義氏書状写」があります。宿老の野田左衛門大夫に宛てた9月17日付書状で、「今度、相馬家中の仕合わせ、是非無き題目に候、梁田中務大輔(晴助)に御勢を遣わす事、仰せ付けられ候、速かに一勢立ち進じ候はば、感悦たるべく候」義氏名の書状初見は弘治元年12月です。右の書状は同2年以降の発信となります。したがって、内紛の時期は弘治2年にあったと推理します。
この様なとき、内紛の原因になったのか解決のためなのか不明ですが、高井家の嫡男治胤が整胤の姉の婿として迎えられます。治胤は「治胤幼年ヨリ弓矢ヲ取テ其ノ誉レ多シ、奇学ヲ好ム十六夜ノ天臣トモ云」(『相馬左近大夫・民部大夫系図』)。と家中から嘱望されていたようです。
内紛の結果は、相馬系図にあるように、庶家出身の高井治胤が宗家相馬整胤の姉と結婚し、整胤を廃嫡し、形式上は養子となって相馬家20代を継ぎます。その時が弘治2年なら、治胤16歳で、整胤は元服前の13歳です。その後、整胤は永禄9年、23歳まで生存し子供まで儲けているので、内紛とはいえ主だった家臣合意の上の当主交代でした。
整胤は永禄9年(1566)正月、逆意(治胤追出しを図ったと思われます)に依り、家臣合川志摩某の手によって、子等と共に殺害されました。この逆意には梁田氏の陰が見えます。簗田家と相馬家は2代続けて婚姻を重ねています。簗田晴助の伯母と妹が「相馬室」として系図に見え、晴助は相馬家と整胤には特別な感情を抱いていたと推定されます。
それは永禄7年(1564)3月「上杉輝虎判物写」に「その意に任せ、相馬一跡進じ候」。永禄10年(1567)4月「北条氏政起請文写」に「相馬一跡并要害、本意候様に相稼ぐべく候」。元亀元年(1570)12月「武田信玄起請文」に「相馬遺跡幷要害、貴辺御本意の儀、里見義弘談合相稼ぐべく申し候」と、謙信も氏政も信玄も、簗田晴助が記した書状の文面通り、相馬一跡並びに要害を譲ると記しています。
晴助はなぜ相馬領を一跡(後継に譲る全財産)・遺跡(個人の残した領地・地位等)と呼ぶのか。永禄9年正月に亡くなった整胤の遺跡といいたかったのでしょう。つまり、晴助の甥である整胤から、当主の座を奪い取った治胤の所有を認めていなかったことになります。
天正2年(1574)秋、「第三次関宿合戦」で関宿城は開城し、簗田晴助の野望は潰えました。